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Takasago Times no.193に掲載された記事2本を転載します

≪著者紹介≫
ヨアン・セルビ/Yohan Cervi
フランスの有名な香水評論家であり、現代香水とその歴史のスペシャリスト。パリ高等香水学校で教鞭を執る傍ら、一般向けの講演などで香水の世界を広める活動もしている。幼少期に植物の香りに感動にして、香りへの情熱に目覚めた。子どもの頃から、彼は両親や祖父母が愛用していたフランスの古典的で偉大な香水に親しんできた。香りへの情熱は彼の頭から離れることはなく、今日でも彼は大手ブランドであれニッチ系のメゾンであれ、新しい香水の美しさと大胆さを兼ね備えたクリエイティビティに驚嘆しつづけている。


調香師(パフューマー)を刺激し続けるパリ

ヨアン・セルビ(Yohan Cervi)

永遠のミューズのように、
パリは香水のブランドにとっても、
そこで日々を過ごす調香師にとっても、
比べるものなきインスピレーションの源である。

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セルビ記事メインイラスト

トリビュート香水


香水がフランスの首都を想起させるのは、パリが香水の世界で高い評価を得ているからである。パリの名はインスピレーション、創造性、コミュニケーションの強い力となっており、それ故フレグランスに豪華さと威信のオーラを与えようとする香水ブランドは信頼を寄せるのである。パリと香水がひとつになることもある。


1922年にコティが発売した香水Paris(パリ)はシックでエレガントなフレンチスタイルを反映させることを意図し、その名は普遍的なメッセージとなった。その6年後、ブルジョワはSoir de Paris(ソワール・ド・パリ)という香水で、ある種のグラマラスなライフスタイルを主張した。


アルジェリアのオランに生まれたイヴ・サンローランは、オートクチュール組合で学ぶために1950年代にフランスの首都にやってきた。すぐにクリスチャン・ディオールに見いだされ、アシスタントとして雇われた。1957年にディオールが他界すると、サンローランはディオールの後を継ぎ、4年後にはパートナーのピエール・ベルジェの協力を得て自身のクチュール※1メゾンを設立した。コレクションを重ねるごとに、サンローランは現代女性のワードローブに革命を起こし、タキシードやサファリジャケットなど、今や象徴的となったアイテムを確立した。サンローランの香水Opium(オピウム/1977年)は、クチュリエの先見的な精神(エスプリ)をフレグランスで表現したものだった。


イヴ・サンローランは、1983年に、自分を迎え入れ20世紀後半で最も偉大なクチュリエのひとりにしたこの愛する都市に、熱い賛辞を贈った。1980年代の幕開け、新しいフレグランス、その名もParis(パリ)のために、クチュリエはバラ色に染めた眼鏡を通して街を見た。恋人たちの街を想起させるのに、愛の花ほどふさわしいものがあるだろうか。当時はまだ流行ではなかった、花の女王が香りの中心テーマとなった。すなわち官能的で古風な花、ローズである。そのローズがパウダリーなヴァイオレットとブレンドされ、甘い郷愁を呼び起こすものだった。簡単に言えば、古き良き時代のパリのロマンチックな魅力が凝縮されていたのである。発売は大成功を収め、長年にわたって愛されたフレグランスとなった。30年後、サンローランはこの驚くべき首都の中心で愛に身をゆだねるように誘うMon Paris(モン・パリ)を発売して、オリジナルの香りにオマージュを捧げた。


同じく香水界の大御所であるシャネルでは、2018年に発売された「オー・ド・シャネル」コレクション※2が、パリを出発点として、このデザイナーが愛した旅先への誘いを発している。パリ-ヴニーズはイタリアの街の素晴らしさを、パリ-エダンブルはスコットランド高地の野趣あふれる自然を、パリ-ビアリッツは南西バスク海岸のピュアな空気をフラコンの中に表現している。パリ-パリは、それを身にまとう人にシャネルの世界が生まれた場所を想起させ、同義反復的なユーモアとともに旅へと誘う。

 

 

 

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パリ ノートルダム寺院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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parisian musc

 

象徴的な場所と独特の雰囲気


数多くの香水が、そのネーミングによって人々にパリを訪れ、発見するよう誘う。

チュベローズ、オレンジの花、スミレ、ジャスミンをブレンドした幅のあるフローラルブーケ、Jardins de Bagatelle(ジャルダン・ド・バガテル/1983年)で、ゲランはパリの西、ブローニュの森にある素晴らしい邸宅にオマージュを捧げた。庭園の牧歌的な魅力は、都会の慌ただしいペースからかけ離れた静けさと喜びを感じさせる。その中心部には、1777年に当時のフランス王妃マリー・アントワネットの要望により、アルトワ伯爵が100日足らずで建てた城がある。1996年、ゲランは香水Champs-Elysées(シャンゼリゼ)によって、世界で最も美しい大通りの散歩を提案した。シャンゼリゼには、ゲランの歴史と伝統を象徴する旗艦店がある。1995年、エルメスは新しい香水「24 Faubourg」をフォブール・サントノレ通りにある歴史的な同社の本店/ブティックのある住所に捧げた。


シャネルの"Les Exclusifs"コレクションの31 rue Cambon(カンボン通り31番地)は、コンコルド広場に隣接するリヴォリ通りからマドレーヌ大通りに向かって北に続く有名な通りを表わす。31番は、ガブリエル・シャネルが1918年にクチュールメゾンを設立した番地であり、現在もブティック、デザイナーのアパルトマン、オートクチュールのアトリエが併設されている。パリの中心でシャネルの礎となったこの建物には、鏡に囲まれた荘厳な階段がある。ガブリエル・シャネルは、見物人から隠された階段の上から、ファッションショーの細部や、ゲスト、顧客、バイヤー、ファッションエディターの反応を観察するのが好きだった。カンボン通り31番地は、時代を超越したスタイルの象徴的な住所である。


イヴ・サンローランのコレクション、「ヴェスティエール・デ・パルファン」のエディション・クチュールは、メゾンの歴史を刻んできた住所からインスピレーションを得ている。6 place Saint Sulpiceは1960年代にオープンしたリブゴーシュの大型ブティックを、37 rue de Bellechasseは本社を、24 rue de l'Universitéはクリエイティブなアトリエがあった場所を連想させる。


一方、パリの独特な雰囲気にインスパイアされた香水も数多い。高砂香料工業パリ現地法人のマスター・パフューマー、オーレリアン・ギシャールが共同設立した香水メゾン※3、マティエール・プルミエールのParisian Musc(パリズィアン・ミュスク)は、彼の若い頃の思い出と、1990年代のとてもシックなコンセプトストアの空間に漂っていた、魅力的なイチジクの葉とムスクの香りをブレンドした香水である。メゾン・フランシス・クルジャンでは、ソフトなシトラス、フローラル、ムスクのニュアンスのPetit Matin(プティ・マタン)が、まだ人通りの少ない夜明けのパリのプロムナードを想起させる。同様に、アイリスとサンダルウッドの香りを持つBDKのGris Charnel(グリ・シャルネル)は、銀色に輝く月の下、セーヌ川のほとりの美しさを発見するよう誘う。
 

夢の舞台


パリはまた、印象的な広告キャンペーンのための変化に富んだ舞台を提供している。

香水メーカーはこの街のエッセンスをコミュニケーションに取り入れ、夢と欲望を喚起するビジュアルでそのエスプリを伝えている。ブルジョワによるSoir de Paris(ソワール・ド・パリ)のために最初に作成されたポスターのひとつは、星空、エッフェル塔、セーヌ川にかかる橋を背景に、川船で優雅なディナーパーティーに出席する上流階級の女性のイラストを描いたものだった。1996年、ピーター・リンドバーグがゲランのChamps-Elysées(シャンゼリゼ)のために、背景には印象的な凱旋門を配し、ライトアップされた大通りの中央にフランス人女優ソフィー・マルソーを撮影した。1994年のLVMHグループによるメゾン買収後、ゲランが初めて発売した香水であり、大いなる野心を秘めた華やかなポスターだった。


2012年、ゲランはLa Petite Robe Noire(ラ・プティット・ローブ・ノワール)を世界的に発売し、ミューズを起用しないユニークなキャンペーンを展開した。アーティストのオリヴィエ・クンツェルとフローレンス・デイガスは、つばの広い帽子の後ろに顔を隠したまま、命を吹き込まれたドレスが登場人物になるというストーリーを考案した。ナンシー・シナトラのヒット曲「These boots are made for walking(日本語題名:にくい貴方)」に合わせて、この有名なパリジェンヌは私たちを憧れの街のさまざまなスポットや名所に連れて行く。

同じ年、香水界で大成功を収めたランコムのLa Vie est Belle(ラ・ヴィ・エ・ベル)は、ジュリア・ロバーツを起用し、彼女はその輝くような笑顔で首都とエッフェル塔を見渡した。ジバンシィのL'Interdit(アンテルディ/2018年)では、パリのメトロの駅プラットホームにアメリカ人女優ルーニー・マーラをより劇的でアンダーグラウンド的とさえ言えるスタイルで登場させた。この没入感の高いビジュアルは見る者にパリの空気感を伝え、まるでそれを吸い込むことができるような感覚を与えた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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公園

 

調香師が見たパリ


世界のどの都市にも共通することとはいえ、パリはひときわ独特の香りを放ち、それが人々の心や記憶に浸透していく。

オーレリアン・ギシャールは、メトロの煙たい匂いとその通気口について言及する。

「春には、大通りや並木道に咲く栗の木の匂い。ビストロやコーヒーショップの日常的な匂いもあるし、パン屋からは温かいクロワッサンの匂いが漂ってくる」。この街は調香師にとって特別な場所である。「父は調香師、母は彫刻家。デザイナーや芸術家、美術館やアートギャラリーのあるパリという素晴らしい環境で育ちました。三宅一生(イッセイ・ミヤケ)や高田賢三(ケンゾー)といった海外の大物クチュリエと仕事をしていた父のおかげで、ファッションの街でもありました」。現在もこの調香師は街の中心に住んでいる。「左岸は文学の街で、右岸はビジネスの街です。この相補的な二面性が、香水の世界を完璧に象徴しているのです」。

オーレリアンは、自分の住む街を知り尽くしているにもかかわらず、文学と芸術シーンの歴史的なメッカであるサンジェルマン・デ・プレ、「ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、フランソワーズ・サガンといった偉大な作家たちの故郷であった小さなエリア」から、この街の探索を続けている。そして、ソルボンヌ大学、パンテオン、ヴァル・ド・グラース礼拝堂があるボヘミアン精神あふれるカルティエ・ラタン。セーヌ川を挟んだマレ地区には、独立系デザイナーが集中し、バー、レストランなどの人の集まる場所がある。そして最後に、高砂香料工業パリ現地法人のオフィスがある17区のテルヌ界隈。このダイナミックで活気のあるエリアには、数多くの企業やオフィスがあるだけでなく、ポンレ市場や新鮮な農産物の屋台もある。

「このエリアは、本物のパリの日常生活を体現しています」と調香師は言う。
 

調香師の日常


毎日が新しい可能性に満ちている一方で、オーレリアン・ギシャールは夜明けのクリエイターでもある。

「一日のスタートを切り、一定の創作ペースを作るために早起きをします。パリは特に朝が素敵な街で、新鮮で明るく、私の職業においてキーとなる “再生”を象徴しています」。調香師は毎日、セーヌ川を渡り、荘厳なコンコルド広場を訪れる。次にシャンゼリゼ通りを歩いてトリチェリ通りにある高砂オフィスに向かう。一日として同じ日はないが、通常、オーレリアンは鼻を休ませながら、前日に試作した香りを、その熟成を待って評価する。そして、適切な修正を加えて微調整が繰り返される。午後には、高砂香料工業が開発した新素材や新しい成分の香りを嗅ぐ。このような嗅覚セッションは、評価チームとの特別な交流の場となる。


顧客とのミーティングも多い。(香りの)美しさ、持続力、イメージ、ハーモニー、発展性など、フレグランスを評価する多くの重要な基準に関するテスト結果を聞く。香水作りには独自のルールがあるからである。「新しい企画を受けるときはいつも、アイデアと意図を練ることから始めなければなりません。香水は、完成するまでに50から1,000ものテストを必要とする、綿密な共同作業の産物なのです」。パリにいるということは、顧客との距離が近いということであり、パリに住んでいる人たち、例えばファッション・ウィークにやってくる人たちにも会うことができる。オーレリアン・ギシャールは、「美学、五感の悦び、美食、ある種の自由な概念に基づくパリの生活様式」に非常に敏感である。しかし、最も影響を受けるのは「人」だという。「パリに住む人たちだけでなく、世界中からパリに集まってくる人々、この多様性こそがパリを豊かにしているのです」とオーレリアンは語る。


パリは多様で複雑であり、個人的なものと普遍的なものが融合している。だからこそ、パリはこの街を愛するすべての人々を結びつけ、刺激を与え続けることができるのだろう。
 

 

 

 

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オーレリアン1

注釈

※1.クチュール(couture)とは、フランス語で高級女性用衣服を作る人または会社を指す。デザイナーやブランドを指すこともある。作り手を指す場合は「クチュリエ」とも言う。「オートクチュール」は、パリのクチュール組合の中で、特に高級で一点ものの服を作るクチュールのこと。これに対し、既製品は「プレタポルテ」と呼ばれる。


※2.香水における「コレクション」は、そのブランドのブティックなど限られた店舗で販売する香水シリーズのこと。通常市場に出るラインの商品より高級な、ブランドのコンセプトやストーリーに即したネーミングのもと一連の香水が発売される。高価とはなるが厳選された原料による個性的な香りが多く、アート感や特別感もあり、近年ファッションブランドなどからのコレクションラインの発売が続いている。


※3.既存の香水ブランドや化粧品会社とは一線を画する小規模なメゾンのこと。オート・パフューマリー、パフューマリー・ドートゥール(作家香水)、エクスクルーシブ、ニッチ系、オルタナティブ系などと呼ばれることもあり、呼称はまだ確定していない。近年では文中にあるように、調香師みずからが立ち上げた香水メゾンも多い。既存ブランドのコレクション同様、高価で高品質な香水を限られた販売チャンネルで販売する。本誌「パリ-「香水の都」の過去・現在・未来」も参照のこと。
 


パリ-「香水の都」の過去・現在・未来

ヨアン・セルビ(Yohan Cervi)

常に進化を続ける国際都市パリは、今夏のオリンピック開催に向け、

華やかな衣装を身にまとい、スポットライトを浴びて輝こうとしている。

光の都はかつてないほど輝き、訪れる人々を魅了し、

文化、洗練さ、ラグジュアリー、そして美といった概念を体現している。

特に香水は数百年もの間、パリと密接に結びついてきた芸術のひとつであり、

その専門性と華やかさゆえに世界中で「香水と言えばパリ」というイメージが定着している。
 

香水史の中心都市


ルネッサンスの時代から、パリは香水の世界で有名だったが、19世紀になって香水産業が近代化するとともに世界的な産業へと変貌を遂げその中心地となった。

1830年代以降の有機化学の進歩により合成香料が製造されるようになると、それが次第に香水にも導入されていった。そのことによって、香水は完全にそしてまた永久的に変化を遂げたと言えるだろう。これらの合成素材は調香師のパレットを10倍に増やし、新たな香りの出現と生産量の増大につながった。


それとともに、産業革命と新技術の台頭を受け、パリとその近郊に香水を製造する真新しい工場が数多く設立された。

19世紀後半、パリは近代化された国際的な中心都市となり、特にナポレオンⅢ世のもとオスマン男爵によって行われた巨大プロジェクトが首都に新しい外観を与えていた。

パリは、文化的、芸術的に世界に影響を与える絶頂期にあった。1889年と1900年にパリで開催された万国博覧会では、100を超える香水メーカーが世界中から訪れた来場者に作品を披露し、名声を高めた。1886年にアテネで開催された第1回近代オリンピックと並んで、これらの博覧会は当時世界最大のイベントとなった。パリはヨーロッパの香水産業の中心地であると同時に、ビジネスの中心地でもあった。鉄道網と国際線航路が発達したことで、世界中から裕福な人々がパリを訪れるようになったからである。ヨーロッパのブルジョワジーや貴族だけでなく、財を成しつつあるアメリカ人もパリの大通りを歩き、街並みの美しさとその独特の魅力に目を奪われた。彼らはまた、観光客のために特別に装飾を施された豪華な香水店に押し寄せ、高価な香水瓶(フラコン)を携えて家に帰り、パリの香水の卓越したイメージを広めることに貢献した。
 

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ミツコ

 

 

 

 

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シプル

栄光の調香師たち


この時代の偉大な調香師の中で、ゲランの名は、今日でもそうであるように、特別な響きを持っていた。

1828年、医師と化学者の勉強を終えイギリスから帰国したばかりのピエール=フランソワ=パスカル・ゲランは、リヴォリ通りのホテル・ムーリスの1階に小さなブティックを構え、自らの名を冠した香水店を創業した。彼はまた、エトワール広場の近く、現在のクレベール通りに工場を設立した。
ゲランは瞬く間に成功を収め、ヨーロッパの主要な宮廷に香水を提供するようになった。1853年、「オードコローニュ・アンペリアル」のおかげで、ゲランは「王室御用達調香師」の称号を得た。これは名誉なだけでなく、勝利をもたらす栄誉でもあった。1865年、息子のエメが後を継ぎ、新しい合成香料をいち早く取り入れた画期的な香水Jicky(ジッキー)など、数々の傑作を生み出した。この香水は、エッフェル塔が落成したのと同じ1889年に発売された。


一方で、ウビガン、L.T.ピヴェール、ロジェ&ガレなども、この時期に驚くべき栄光に輝き続けた。彼らは皆、フランス香水の高級イメージを利用し、パリの名は本物、名声、卓越性を保証していたのである。


そして、20世紀の幕開けに、新たな創造者、先見者、冒険家たちがフランス香水の名声と繁栄に参加することになる。

その中のひとりにフランソワ・コティがいた。フランスの地中海に浮かぶコルシカ島出身のフランソワ・コティは、わずか26歳でパリに渡り、代議士の秘書となった。薬剤師であり化学者であった友人の紹介で、偶然にも香水に出会い、すぐに香りへの情熱に目覚めた。専門家の中で学んだ彼は、自分の研究所を作り、パリの西にあるスレンヌに工場を設立した。1904年、彼の最初の香水La Rose Jacqueminot(ラ・ローズ・ジャクミノ)は社交界の女性たちを魅了した。翌年に発売された、Ambre Antique(アンブル・アンティーク)とL’origan(オリガン)は真の革命を起こし、現在も使用されている香調分類のもととなった。そして1917年、コティは現在「シプル(あるいはシプレー)」と呼ばれる香水タイプの原型となる香水、Chypre(シプル)を発表した。フランソワ・コティは、それまで選ばれた人たちのものであった香水が、いずれ大量消費される製品になると信じており、販売戦略と広告の重要性を理解していた。


ゲランに倣い、彼はバカラやラリックといった最高のガラス工房と組み、香水瓶(フラコン)をデザインさせた。このようなパッケージへのこだわりは、パリの香水産業の重要な特徴であった。コティが設立されたのと同じ1904年、ロシア出身のフランス人アーネスト・ダルトロフがCaron(キャロン)を設立した。1900年の万国博覧会が、この大胆な起業家に冒険への参加を決意させたのだった。コティとは対照的に、キャロンはヨーロッパや北米の主要都市の上流社会に狙いを定めた。キャロンのカタログは急速に世界中に拡がっていったが、このメゾンが国際的な名声を確立したのは、1911年に主要な香水Le Narcisse Noir(ナルシス・ノワール)を発売してからのことだった。サンダルウッドとムスクの香りをベースにオレンジの花をあしらったこの豪華な香水はすぐに成功を収め、特にアメリカのハリウッドスターの間で評判となった。1923年、ダルトロフは、ニューヨークの5番街にアメリカ法人キャロン・コーポレーションを設立し、フランスの「特産品」が大西洋を越える手助けをした。
 

ファッションと香水、パリならではの不朽のつながり


こうした偉大な調香師たちが成功を収める中、クチュリエによるフレグランスという新たな要素が、パリと香水の関係をさらに強固なものにしていった。

この現象は1910年代初頭にポール・ポワレによってもたらされた。ポール・ポワレは先見の明のあるデザイナーで、華やかなランウェイショーでオートクチュールのコレクションを発表した。1911年、彼は娘のひとりの名前にちなんで名づけられた香水Les Parfums de Rosine(パルファン・ド・ロジーヌ)を発売し、香水を出した最初のクチュリエとなった。そして、Nuit de Chine(ニュイ・ド・シーヌ)やLe Fruit Défendu(ル・フリュイ・デファンデユ)といった、夢のように魅惑的な香水を発表した。


ポワレがパイオニアであった一方で、1921年に調香師エルネスト・ボーが創香し、今では信じ難いほど有名になった「N°5」を発表したとき、初めて自分の名前を香水ブランドに冠したのはガブリエル・シャネルだった。彼女にとって、香水はパリジェンヌのワードローブに欠かせない要素であり、女性にとって不可欠なものだった。N°5は20世紀に世界で最も売れ、最も有名な香水となった。


第二次世界大戦時のパリ解放後にアメリカ軍兵士たちはカンボン通りのシャネルブティックに殺到し、パリの断片を持ち帰ろうとするかのように、妻や婚約者のために1本のフラコンを熱望した。ガブリエル・シャネルに続いて、ジャンヌ・ランバンがArpège(アルページュ)を、ジャン・パトゥーが「世界で最も高価な香水」Joy(ジョイ)を発表した。こうした現象は規模を拡大し、1950年代にはクチュリエの香水が市場を席捲するようになった。クリスチャン・ディオール、ニナ・リッチ、マルセル・ロシャス、ユベール・ド・ジバンシィ、イヴ・サンローランは、香水をクチュール・コレクションの嗅覚による翻訳として捉えていた。まさにパリ流のシックな手法である。Femme(ファム)、L’air du temps(レール・デュ・タン)、Miss Dior(ミス・ディオール)、後にOpium(オピウム)やPoison(ポワゾン)といった彼らの最も有名なフレグランスは、ほぼ世界中で販売された。1990年代には、ジャンポール・ゴルティエのLe Mâle(ル・マル/フランシス・クルジャン創香)、初のグルマン香水であるティエリー・ミュグレーのAngel(エンジェル/オリヴィエ・クレスプ創香)など、パリの新しいデザイナーが革新的な香水を発表した。


また、アクアティック・フローラルの代表作であるEau d’Issey(オー・ディッセイ)は、広島出身のデザイナー三宅一生とグラース出身の調香師ジャック・キャバリエを結びつけ、日仏の架け橋となった。「パフューマーは香りを通してブランドのDNAを伝え、ロレアル、プーチ、コティなどのライセンス会社と手を取り合い、あるいはファッション・ハウスと直接仕事をしてきた。ファッションの中心地であるパリは、最大のクチュールメゾンの本拠地であると同時に、彼らのアイデンティティを創造し、表現する人々の本拠地でもあった。この特別な都市は、さまざまな形の芸術、専門知識、ノウハウを集め、それらが互いに影響を与え合ってきた」と、高砂香料工業パリ現地法人でマスター・パフューマーを務めるオーレリアン・ギシャールは分析する。

今日、香水業界の大物の多くは、100年以上前にフランスの首都で生まれたこうした現象を反映して、今もファッションの世界と結びついている。
 

香水のクリエイションと育成の聖地


「調香師は常に、文化や芸術、そしてクチュールが存在する場所(すなわちパリ)に惹かれてきた」とオーレリアン・ギシャールは指摘する。
実際、この創造的な熱気に刺激され、高砂香料工業を始めとする国際的な香料会社は20世紀を通じて、そして今日に至るまで、パリとその近郊に集中的に開発拠点を置いている。

また、パリとその近郊は、将来香りの専門家になろうとする若者を惹きつけ、香料の専門職を学ぶメッカであり続けている。1970年にパリの南西に位置するヴェルサイユに設立されたISIPCAは、現在もフレグランス、化粧品、フレーバーの専門学校として知られている。50年以上にわたり、科学、技術、マーケティング、ビジネスの各分野におけるフランス独自の専門知識を共有しながら、世界中から集まる学生を指導しており、香水業界の国際的な著名人を含む約6,000人の卒業生を輩出している。

ISIPCAのキャンパスを共有するのは、香水の保存を目的とする国際組織、オスモテーク(Osmothèque)である。1990年、調香師のジャン・ケルレオによって設立されたこの施設には世界最大の香水アーカイブがあり、現在および過去の5,000以上の香水が保管されている。これらの香水は、この組織の調香師によってオリジナルの処方に従って再現されている。オスモテークは開かれたシェアの場であり、素晴らしい遺産を伝えるため、さまざまなテーマで専門家や一般向けの講演会などを開催している。

一方、パリの中心部も香水産業の専門家育成という点では負けていない。2011年以来、パリにはエコール・シュペリユール・デュ・パルファムがあり、香水の創作、評価、マーケティング、マネージメント、コミュニケーションなど、専門職として認められているさまざまな分野のトレーニングを提供している。2018年には、戦略的立地であるグラースにもキャンパスを開設した。
 

パリとグラースの錬金術


パリの南東900キロ、地中海に面した丘陵地帯にある小さな町グラースは、香料植物の栽培で古くから世界的な名声を博している。

1960年代以降、不動産価格の高騰や他国の農業との国際的な競争もあって衰退の一途をたどっていたが、大手フレグランスメゾンの戦略によって再び繁栄しつつある。シャネルは1980年代後半にこの地に拠点を構え、現在30ヘクタールの土地で5種類の香料植物を栽培し、現地で抽出を行っている。パルファン・クリスチャン・ディオールも地元の若い生産者と独占的なパートナーシップを結び、ルイ・ヴィトンは17世紀にさかのぼるエステート、フォンテーヌ・パルフュメにクリエイティブ・ラボを設置した。

逆にグラースは、オーレリアン・ギシャールが2016年に共同設立した香水メゾン、マティエール・プルミエールの出発点でもある。「この冒険の始まりから、私は生産者となり、栽培者となり、センティフォリア・ローズ、チュベローズ、そして最近ではラバンジンを10,000本植えることで、土地と天然素材に触れようと決めた」と語っている。


古くからの調香師の家系に生まれたオーレリアンは、6世代にわたる伝統を受け継いでいる。今日、彼はグラース地方で自ら栽培した天然原料の恩恵を受けている世界で唯一の調香師である。Radical Rose(ラディカル・ローズ)やFrench Flower(フレンチ・フラワー)といった彼の作品には、そうした特別な原料が使われている。調香師は、本物の素材を使うことに重点を置きながら、パリらしさと外向きのモダンで都会的な要素を併せ持つ、最高品質の香水を作りたいと考えていた。パリに本店を構えるメゾン「マティエール・プルミエール」は、パリとグラースというふたつの香水の都の力強く相補的なつながりを完璧に体現していると言えよう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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植物

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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nose shop

エネルギッシュな創造とビジネス(パリの香水ブティックガイド)


今日、セレクティブな流通経路を超えたところに位置するフレグランスハウスが躍進している。

オート・パフューマリー、パフューマリー・ドートゥール(作家香水)、エクスクルーシブ、ニッチなどとも呼ばれるこれらのブランド群は、パリが何十年にもわたって築き上げてきた芸術的で創造的な香水作りの価値を伝えている。ディプティック、ラルチザン・パルフュムール、アニック・グタール、セルジュ・ルタンスといった歴史的なブランドは、徐々に国際的な知名度を高めてきた。また最近では、メゾン・フランシス・クルジャンや、今やカルトフレグランスとなったバカラ・ルージュ540のように、世界的なサクセスストーリーとなったフレグランスを発表し、市場をリードするブランドもある。


マティエール・プルミエール、BDK、メゾン・クリヴェリは、フレグランス愛好家を魅了する新世代の先見的メゾンの代表である。このクリエイティブなエナジーと並行して、香水専門の販売店もパリで発展を続けている。ギャラリー・ラファイエット、プランタン、ル・ボン・マルシェ、サマリテーヌ、BHVマレなどのデパートでは、高級香水にますます大きなスペースを割いている。

シャンゼリゼ通りには、ヨーロッパ最大のセフォラやゲランの旗艦店がある。この有名な通りの周辺には、ブティックで特別な香水コレクションを提供する大手ファッションブランドが集中している。サントノーレ通りには、ル・ラボ、ジョー・マローン、エクス・ニヒロ、ニシャーヌ、ビレドといったブランドが集まっている。メゾン・フランシス・クルジャンも近くにあり、希少な香水を数多く扱う大手マルチブランドブティック、ジョヴォワもある。


レ・アールの北には、アヴァンギャルドな香りのコンセプトショップ、ノーズがある。

一方、歴史的なマレ地区も香水のメッカとなっている。ブルジョワ・フラン通りには、ジュリエット・ハズ・ア・ガン、フラゴナール、ディプティック、フレデリック・マル、ボン・パルフュムール、ペンハリガンなどのブティックが軒を連ねている。パリの中心は香水のリズムに合わせて鼓動し、100年以上前と同じように世界中から訪れる人々を魅了し続けている。


しかし、パリが素晴らしい独自の遺産を形成している一方で、「光の都」は過去の栄光にとどまってはいない。「パリは他の都市とつながっている。新たな発明はコラボレーションから生まれる。パリは、世界、現代、そして未来を見つめる実験室なのだ」とオーレリアン・ギシャールは結論づける。この心地よくダイナミックな都市が、夢のようなエッセンスを伝え、明日の新しい香水を生み出すために、創造的な「エスプリ」を育み続けることは間違いない。